紙と鉱質インク

これらのスケッチは明暗さまざまな心象を(そのとおり)写実した言語記録(紙と鉱質インク)です

映画『メッセージ』の感想

初日ということもあり、映画館はほぼ満席。であったが、周囲の反応はイマイチのようだった。エンディング上演直後から続々と立ち上がり、三分の一ほどがいなくなってしまったのだ。

それを美徳とする人々がたまたま集っただけかもしれない。立地の問題なのかもしれない*1。けれど『一蹴するには早計ではないか』と一言いいたくなったのがこの記事を書く動機に繋がっている。

www.message-movie.jp

映画『メッセージ』本予告編

雑感(ネタバレなし)

ネタバレなしで感想を述べるなら、原作から知って入った方が楽しめるのかもしれない。むしろ、原作が読み物としてよくできているが故の映画化といえる。原作『あなたの人生の物語』は終始『あなた』へと話しかけるレトリック的特徴があり、映画でも継承されている。個人的にSFとしての面白さより文学寄りの面白さがある。

原作を読めば分かる通り、ドラマチックな場面が少なく、映像化の困難な描写や場面があることは分かっていた。なので、起伏の少ない見せ場に対してどのように具体的な映像表現に落とし込むのかが個人的に注目すべき点であった。実際の映画では、監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴらしい効果的なサウンド配置でキャラクターの不安感や場面状況を音で見せていく演出があり、それがどう受け取れるかでこの映画の評価が分かれるといった感じ。結果的に、私は満足し昨日は家に帰ることができた。

映画館での否定的な反応を最初にご紹介したが、肯定的な反応も書いておきたい。
映画を鑑賞後、原作を読んだという後部座席のお姉さんたちは円盤を買うと言ってました。記号論について、多少は齧っている様子だったので、そりゃそうかという印象。(盗み聞きしていたわけではなく声が大きかったのです)
ただ、ヒントが細切れなので気付けば面白いが、パズルを解けないとモヤモヤすると思います。こういった点でも原作組はより楽しめるかな。

 

人間視点の物語(ネタバレあり)

エイリアンの思考解読は特に言及されないため想像で補完する必要があるが、表義文字の意味がわざわざ字幕で示されるので面白くはない。正直、この字幕がこの映画を興ざめにしているのは否めない。全ての言語が文字通り正しく翻訳可能なら、この映画の趣旨と反してしまう。ただ、これをやらないと物語が破たんしてしまう制作者の二重苦が見え隠れするので何とも言えないところである。

映画と原作の違いと相似点

映画で言及されるとは思わなかった『サピア=ウォーフ仮説』について、原作を読んだ時からずっと頭の片隅に収納していたものが露わにされたような錯覚を覚えた。言語学ではある程度有名な命題なのでググれば沢山でてくるお話ではあるものの、映画館でこの単語を聞いた私はテンション上がりまくり。うおおおおお、という感じでした(笑)

言語・思考・現実 (講談社学術文庫)

言語・思考・現実 (講談社学術文庫)

 
ことばと思考 (岩波新書)

ことばと思考 (岩波新書)

 
Through the Language Glass: Why The World Looks Different In Other Languages

Through the Language Glass: Why The World Looks Different In Other Languages

 

 ↑大体この辺り読んでおけば問題ない。

原作に比べて、人間のディスコミュニケーションとその複雑さを強調した節があり、これが人間中心の物語に寄せている。中国人が悪者だったりするのは、ハリウッド的でもある。人間たちが次々と疑心暗鬼を生み相互不理解を起こす中、ヘプタポッドら宇宙船は時間・空間を超越した連携をとる対比も見ていて楽しかった。ヘプタポッドらが通信手段を持たないのは直接的に伝えあわずとも未来を共有し知っているからだろう。一方、人間が対立を意識するのは、生物進化論的にその方向に流れてしまうから。この辺り、監督の『ボーダーライン』『プリズナーズ』でも取り扱われていた内容と重複する部分があるように思われる。人間と人間のディスコミュニケーションが生まれ、それがもたらす悲劇的な結果、あるいは人間の善悪の接近が生まれてしまう。

身体による思考性

 人間は顔の正面にたくさんの重要な器官を備えている。これが『前』と『後ろ』という概念を生む。我々は前後の概念を持っているのは、その身体的特徴から必然的に導かれるものである。例えば、我々は腕を後ろに振りながら後ろ歩きを、ある特別な訓練をしていない限り、通常の歩き方と遜色なく行うことはできない。

同様に、人間が『上』『下』という概念を理解できるのは地球の重力により、物体が落『下』するからである。映画で、ヘプタポッド宇宙船に乗りこんだ人類が天井や壁面を歩く描写を見せていたのは、ヘプタポッドが地球の『上』『下』とは根本的に異なる概念を持っているからである。

一方、ヘプタポッドらは軸対象な身体を有しており、このため、彼らは人間と違い前後関係を持たない。それは、全ての方向を等価で捉え、全ての距離を点対称的な理解として捉える。彼らが代数学を理解するのが困難なのはこのためである。原作でも登場するこの解剖学的な理解は、映画では何も説明されない。

言語による思考性

人間はその言語構造として文法を持ち、正しく直線的に言葉を配列することで一つの文に対して、一つの完結した言明を表す言語表現を容易にいくらでも複雑に紡ぎだすことが可能である。ただ弊害として、はじめから文脈を考えずにつらつらと書くこともできてしまう。特に、日本語は英語に比べてこの部分が当てはまることが多い。
これに対して、ヘプタポッドは円形の文字を書く。カリグラフィー的な円には、始まりと終わりはなく、これを書く前から文の全体の構成がどうなるのかを、ヘプタポッドははじめから心得てなくてはならない。表義文字はそれ自体で完結しており、矛盾もあいまいさもない文法に従って定義される。このあたりのお話について原作では、フェルマーの最小時間の原理と絡めて論じられていて、細かい説明もあり、原作を読むのが一番手っ取り早く理解できる。
彼らの言語が始まりと終わりがないのと同様に、彼らの人生も初めから、終わりと始まりがない。それは現在の内に全ての時間を内包しているからであり、我々の人生は始まりと終わりがあり、一直線的に捉えることとは大きく異なる。このあたりの話は弱い『サピア=ウォーフ仮説』に準じた考え方があり、言語が思考にある程度影響を与えうることで、言語が世界観を規定し、世界を理解する枠組みとしての言語に影響された人生が生まれる。この映画の肝となるポイントである。

ただ映画は、人間がこのヘプタポッド言語を習得していく仮定がイマイチであったように思える。このあたりこそ映画の見せどころであって、言語哲学者が固唾を呑んで見守った後、批評を加えたくなる箇所である。だからこそ、原作はなかなか楽しめたのだけれど、映画ではSFに重点を置いたせいか、ただのお騒がせ事件として終わってしまっており、B級映画並みの雑な作りに見えたところもあった。

以上、総評すると「原作が面白い」映画。ぜひ原作を読んでみて(錯乱)。

あなたの人生の物語

あなたの人生の物語

 
自殺したくなった話

映画を見終えて、ふとこんなことを考えてしまった。

もし、自分がヘプタポッド言語を完全に理解することができるのなら、自分の死を受容したい。そして自殺したいと考えてしまう。いや、自殺してしまうのではないか。私だけではない。きっとあの世界では自殺者は増えるのではないのか、と。

現在の内に永遠を受容することは、人生に起こりうる、あらゆる可能性のうちにあった幸福と絶望を一瞬で感じることである。つまり、それらはもはや可能性ではなく必然性をもつ偶然となってしまう。生きることはもはや未来から宣告された運命であり、その生に何の意志の自由もなく従い続けるしかない。私はその一瞬の内にありとあらゆる永遠を受容し、その内にある幸福と絶望を享受せねばならない運命さえも享受せねばならないことに永遠の絶望を感じ自殺するだろう。
私の可能性に留まっていた、ありとあらゆる世界、一瞬一瞬の内に認識し続ける無味乾燥な必然の世界を終わらせるかもしれない。

追記:

パンフレットを読んだ。どうやら彼女が将来ガンで死ぬ娘を愛することを受容し、生きていくという選択をしたことに対する、高評価が連ねてあった。私はそうは思わない。むしろ、そういった因果的思考は、人間由来の思考であって、始まりと終わりを意識しているからそう考えてしまうのだろう。まだヘプタポッド言語を理解するということを、完全に理解していないのではないか。彼女は、娘がガンで死ぬ悲しみも、生まれる喜びも、今後すべてのあらゆる幸福と絶望を、あらゆる瞬間で、永遠に受容し続けねばならない選択をしたことに称賛すべきだろう。

私には、それはできないというお話にすぎない。3900文字

*1:初めて行った映画館であった。

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