紙と鉱質インク

これらのスケッチは明暗さまざまな心象を(そのとおり)写実した言語記録(紙と鉱質インク)です

謎と違和感の相違と類似

 
 
謎とは、対象(作品、世界)で提示される問いに由来する。謎は、新たな謎を呼び展開されるもの。謎は作為的なもの。謎にはいくつかの解答があらかじめ決められる。故に論理性がある。
 
違和感とは、対象で発見される気づきに由来する。違和感は沈殿して蓄積されるもの。違和感は無作為的なもの。違和感は明確な解答を与えずその都度沸き上がってくるもの。故に、非論理性である。
 
謎は抽象的対象にあるが、違和感は五感に由来するものを含む。(音や味、見ることについての違和感を想定せよ)
ゆえに、違和感を感じる(と思われる)ものが謎であることはあるが、謎である(と思われる)ものが違和感であることはほとんどありえない。ここで重要なのは、ほとんどないことではなく、『ほとんど』と形容されることにある。
 
違和感を感じる(と思われる)ものが謎である問いとは、氷菓の『わたし気になります!』的問いが考えられる。
千反田さんの発する問いは、「他人が…する、または…されたのはどうしてか?」という発問から生まれる。これは一見、千反田の違和感から生じたように見えるが、彼女の発見から生じた気づきではなく、「他者」の行動や動機に対する提示された問いの気づきなのである。他者の行動や動機は、その当人の作為的な意識によって行われる。ゆえに、それらには特定の解答が含まれている。その作為的意識下での行動を千反田が提示された問いとして受け止めあたかも気づきのように振る舞うのである。これは千反田に限らず、われわれの日常に根ざした具体的な生の上で自然に発せられる問いである。ゆえに、この種類の問いはよく使われる。
 
一方で、謎である(と思われる)ものが違和感である問いとは、「生きるとは何か」「死ぬとは何か」「幸福とは何か」などの問いである。これらは一見謎であるが、その都度展開される問いではなく、われわれの日常を離れ、沈殿していた違和感から生じ、ある時突然対象から発見され気づきとしてわれわれの前に漠然と表れる。これらの気づきには明確な答えがあらかじめ決められておらず、人間としての感覚(五感)から離れて問うことは不可能である。ゆえに、これら違和感は各人の気づきに由来するため、その問いを発見した各個人の意識とは別に無作為に問うこともできない。