紙と鉱質インク

これらのスケッチは明暗さまざまな心象を(そのとおり)写実した言語記録(紙と鉱質インク)です

『Interview With The Whisperer』の感想~「神さまと会話すること」の表現の不可能さ~

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deconstructeam.itch.io

ゲーム内のキャラクターにとってのほんとうの神さまは、そのゲームを遊ぶ「プレイヤー」のことである。だが実際はそうではない。プレイヤーの一人であるこの私、ホワイトと呼ばれる「私」ではなく。なぜかホワイトという名前がついている今の私つまり、むりやり言葉にすれば、<これ>である。そして、(このゲーム内の表現を借りれば「悪魔」である)ゲームクリエイターはこれを表現することはありえない。たとえ悪魔が「神の働きを取り消すことを目的とする破壊的な存在」だとしてもこの端的な事実を破壊することはありえない。もしもそうでありうるならば、はじめから悪魔は神だからだ。だから、このゲームに限らず、「この」神様と会話することを表現しようとするあらゆる創作物(あるいは言語活動)の試みは必然的に失敗する。はじめからありえないものをあたかもありうるかのように装っている(ということになってしまう)、そういうたぐいの失敗なのだ。という意味で、Interview With The Whispererは「一つの」表現の構造を示したともいえる。

ゲームの説明。「Interview With The Whisperer」は、神と会話できるラジオを作ったという老人マニュエルにインタビューしていく短編ゲームだ。開発元は、『The Red Strings Club』のクリエイターであるDeconstructeam。ゲームはitch.ioで無料ダウンロードできる。チャットボット技術を利用した実験的な会話アドベンチャーで、自由記述したものをゲームキャラクターが理解できるかどうかに関わらず応答するゲームシステムになっている。

このゲーム内のインタビューはすべてゲーム外のプレイヤーの意志によって質問することが可能である。選択肢が存在せず、代わりにプレイヤーに記述させるゲームシステムは、言語が英語にかぎられるという制約はあるものの、有限の選択肢のなかからどれか一つを選ばせるよりも、プレイヤーの選択の余地があり、より介入が可能なゲームデザインになっている。質問を自由に記述できることは、プレイヤーにとって、選択肢が限られることに対するストレスや違和感を感じずにより直接的な介入を可能にしてくれる。チャットボット自体はかなり昔から存在するが、こういうことを実際にできるゲームは案外少ないという点で特徴的だ。
しかし当たり前のことであるが、このゲーム内の会話の応答はゲームクリエイターによってあらかじめプログラミングされた有限個のバリエーションしかない。バリエーションを増やすことはプレイヤーの没入度を高めることにある程度成功しても、ゲーム中で表現可能な事柄はそれがゲームという媒体である以上どうしても制限がある。実際、初歩的な質問にAIが応答できず、会話が噛み合わないことがときどきあった。この部分は残念でありゲームシステムの改善が求められる。しかしシステムの改善だけでは表現不可能なことがらにこのゲームは挑戦している。「神さまと会話すること」の表現である。

ところで、RPGゲームではよくあるお約束事として、たとえば、旅人が村人に話しかけると毎回同じセリフ応答をするにも関わらず、旅人一行もそれを話す村人でさえも、毎回同じ応答をすることに疑問を持つことがありえないということがある。もしも疑問を呈しても、それがゲームである以上ただそのように「おかしい」セリフが作られているにすぎない。だから、ゲーム内のキャラクターはその<おかしさ>を直接に表現することができない。そのゲーム内のキャラクター視点ではなく、あくまでゲームの外側からの視点で、つまり悪魔の視点で、そのゲームが眺められていることによる<おかしさ>は常にゲームの外側にしかありえない。そしてゲームの外側を表現し得るゲームは存在しない。もしもそれが可能なら、内側に作られた「外側」しかありえないからだ。そしてゲームの外側がありえないならば、そもそも<おかしさ>はありえない。だから毎回同じ応答をすることがありうる。

ゆえにこそ、このゲーム終盤の急展開は衝撃的ではない。なぜなら、このゲームの内側の神さまもまた、ゲームクリエイターによって創作された一登場人物の「一つ」に過ぎないのだから。このゲームの本当の神様はこのゲームの中には存在しないし、それを直接的に表現することも、じつはできない。これは映画だろうが、絵画だろうが、小説やマンガ、ゲームだろうが、あらゆる創作物についていえる。画面「内」に登場する「神さま」は画面<外>の<神>ではありえない。

ノベルゲームでも同じである。素晴らしき日々の音無彩名もまた、彼女が話していると自称するゲーム内の「あなた」はゲーム外の<あなた>ではありえない。(彼女は決して「プレイヤー」と同格ではありえない。我々ゲーム外のプレイヤー側の世界からみれば、「あなた」さえも、彼女の世界はどこまでもゲームの内側にしかありえない。)Doki Doki Literature Club!のモニカもまた、ユーザー名をテキスト欄に表示しただけで、ゲームクリエイターの意志に反して、<あなた>のことを指示させることはできないのだ。そもそも指示不可能なものとしてのみ<あなた>があるからである。(もしもモニカがホワイトと呼びかけたとしても、それはプレイヤーの一人である「私」ではありえても<私>ではありえない。名前が偽名だろうが真名だろうが<これ>と無関係である。)*1
最果てのイマの脳腫瘍であっても、事情は変わらない。ゲーム内のイマはゲーム外の<イマ>ではありえないのだから。表現できるのはあくまでその構造までだ。
まとめよう。Interview With The Whispererは「神さまと会話すること」の表現に挑戦したゲームであり、このゲームの真の価値はゲーム内で語られる内容ではなく、じつはゲーム外にすでに存在するという事実にある。この短編ゲームは「神さまと会話すること」への表現の構造を示すことにむしろ価値がある(ように思われる)。

ちなみに私は最後に「God」を入力した。「お前を消す方法」を実践できる稀有なゲームでもあった。*2

*1:ところでDoki Doki Literature Club!をプレイする際に、ユーザー名を「私」あるいは「わたし」に設定していたプレイヤーはかなりおもしろい光景を目撃したのではないだろうか。モニカにかぎらず登場人物四人のキャラクターがそれぞれ架空の新入部員を想定して会話劇をしていると解釈できるのだから。(実際にこれはゲームなのだが)私的にはこちらのほうが面白い。

*2:追記:ところで、もしもこれが可能ならばまさにこの方法を可能とするある種の契約が取り交わされていなければならない。契約が存在する以上、この方法では削除はできても消去には及んでいない。まさに削除が可能なのだから。私が言いたいのはそういうことではないのに。そして消去それ自体もまた「一つの」表現になってしまう。こうして余分なおしゃべりが延々と続いてしまう…!