紙と鉱質インク

これらのスケッチは明暗さまざまな心象を(そのとおり)写実した言語記録(紙と鉱質インク)です

2018年に観た新作映画を振り返る

というわけで、去年に引き続き今回で三回目になりますが、映画を振り返る記事を書きました。 今年観てきた24本の映画の中から、印象に残った5つの映画について書きました。その場でメモし後日加筆修正したものになります。【ネタバレあり】7466文字

リズと青い鳥 

『リズと青い鳥』公式サイト

リズと青い鳥』ロングPV

おそらく今後放送されるあらゆる百合アニメ作品に影響を与えることになるであろう、傑作アニメ、それが「リズと青い鳥」です。

吹奏楽部に所属する女子高校生二人の関係をみるストーリーで、水彩画のようなタッチとクオリティの高い音響演出が話題になった、百合アニメオタクの間では大変評価の高い作品です。この作品の魅力のひとつはまさに大きなスクリーンと整った音響設備でないと体験しえないところで、それがゆえに唯一三回見に行った作品です。

注意しなければいけないのが、吹奏楽などの大きな音が流れるから音響が重要であるのでなく(もちろんそれも魅力の一つだと思いますが)、ふたりの女子高生みぞれと希美の掛け合いにある吐息や足音や間が重要であることです。音の高低差が演出にメリハリを与え、ふたりの少女の内面や関係をドラマチックに盛り上げています。映画の鑑賞の仕方には少なくとも二種類あって、ひとつはテレビを大勢で囲って楽しむようなスタイルと、もうひとつは美術館でじっくり絵画と対峙するようなスタイルがあるわけですが、息をするのもノイズになってしまうようなこの映画は後者のスタイルが適しているということです。とある百合オタクが用いた表現を使用するのならば、結論だけ言います。あなたは死にます

これは非常に説明をあたえるのが難しいのですが、私が思いつく言葉はドキュメンタリー映画のような俯瞰視点で見る映画だとか、映像の抒情詩だとかいろいろあるのですが、どれもしっくりこない。というのも、映像がわたしたちに与える印象は名状しがたく、それは言葉で記述できないだろうという心理的抵抗があるからです。ここで「同じように」という言葉を使いたくなる誘惑があって、たとえば、ある一連の詩を何人かで読みあうとして、声や強弱が異なっているにもかかわらず、「私は彼と同じように読む」という意味で「同じように」という言葉を使用したくなるわけですが、そもそもどのようにしてそれを知るのかということとそれはまったく分析になっていないという点で、困惑しているのが現状です。私はいつの日かそれにピッタリする言葉ないし詩句を見つけられるかもしれません。

音響演出が素晴らしいのはもちろん、京都アニメーション描くキャラクターへの人間観察が凄まじい。まつげの震えや瞳の動き、手の動作一つとっても、キャラクターの表情が汲み取って見えることが衝撃でした。なぜこうも人らしく見えるのか。不思議でなりません。

この映画で感動したポイントはたくさんありますが、しいて挙げるなら、今まで揃わなかった2つの足音がひとつになる瞬間ではなく、また2つの足音に別れていくところでしょう。物語的帰結を性急にしない作品構造をしていて、それがあのラストの下校シーンをより情緒的に仕立てています。そこに二人の消えゆく青春の残り香を感じ取ることができるわけです。はたして二人は無事に添い遂げることができるのしょうか。筆者は願って止みません。

ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-

ポノック短編劇場『ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』公式サイト

「透明人間」特別予告編

「ちいさな英雄」をテーマとする、3つの短編をまとめた映画。実験的要素が強く、スタジオ・ポノックが方向性を模索していることが伺えます。その中でも、山下明彦監督の「透明人間」が素晴らしかったです。ほかの二作が主人公をちいさな英雄としてモチーフにしているのに対して、「透明人間」は主人公だけに限らないのもよい。

「透明人間」の魅力はまず主人公の透明性を不可視という意味ではなく、不在という意味での透明性で表現していること。誰かに声をかけようとしますが言葉は届かず、まるでそこにいないかのように人々から相手にされない男の姿を描いていること。存在を認知されない主人公がついには重力にも見放され、シャベルや消化器などにしがみついていないと今にも吹き飛ばされてしまいそうなその姿がスクリーンに映し出されるとき、寓話的にわたしたちの姿をそこに見ていることに気づくでしょう。

そもそも、この作品に関して孤独な人間であることをことさら強調している感想を見かけますが、それは割と鈍感でしょう。周りに人がいなくて、相手にされない孤独はこの映画の場合、表面的なものに過ぎません。たとえ周囲に人がたくさんいて、自分を慕ってくれる友人や家族がいたとしてもその人は孤独を感じ得る。つまり孤独と孤独感は別物なのです。幸福で「ある」ことと幸福を「感じる」ことは別物であるように。いつ誰にだって孤独感と隣り合わせであるがゆえに、この作品がもつ寓話的な表現が安部公房の小説のごとく、ひとつの魅力を持ち得るのです。

また、アニメーション作品として総合的に素晴らしいです。眼鏡についた水滴の流れからはじまり、加速度がかかるアクションや風になびくジャケットのモーション、表情がない透明人間の感情を表現する身体の躍動やこわばり、主人公の見つめる先にある淡いタッチの風景など、アニメならではの見せ方や表現が全体にわたって満載で、演出も作画も背景も音楽も声優も頭一つ抜けています。細かいところでいえば、透明であるがゆえに本来は見えない左側に流れる水滴の流れが右からのカメラでも流れていくのが見えるカットや、視点が透明人間の体をくぐり抜けていくカメラワークも透明人間の設定を活かした表現で、他に類を見ないです。

台詞が少ないところも、個人的にポイントが高いです。最近のアニメはやたらに説明しすぎるきらいがあるので、もう一度見直したいと思うぐらいの塩梅もちょうどいい。次があれば、今度は山下監督の長編が観たいです。

ムタフカズ

映画「ムタフカズ -MUTAFUKAZ-」公式サイト

映画『ムタフカズ』本予告編

さよ朝が美しい美術と音楽にのせて主人公を取り巻く残酷な現実を描いていくのに対して、ムタフカズは対称的な作品と言えます。最初から最後まで何もかもが汚い腐った世界で、かろうじて生きてきた主人公が芯を持って不可解な事件に巻き込まれていくアニメ、それがムタフカズです。題名「ムタフカズ-MUTAFUKAZ-」の意味はMother fuckers。題名まで汚いのはしびれます。

自動車からポスターまで、こだわり抜いた汚れの表現が最高。CG絵はよく動くし、腐った世界観とギャップのあるコミカルなキャラクターも引き立っていて、かなりエキセントリックです。超絶的なアクションシーンの数々は爽快感すらあり、STUDIO4℃の力量を存分に感じ取ることができます。

ただシナリオが良くありません。中盤で中だるみ後半はまくしたてるような急展開、結局何も解決されずに終わりそのまま最初の場面に繋げても違和感がない。むしろそういう構造にしたのではないかと穿った見方もできます。アンジェリーノが映画のはじまりと比較して大きな成長を見せないのも一周回っていい。アンジェリーノはこれからもずっと芯を持って生きていくのでしょう。のちに超人的な能力に目覚める主人公が目まぐるしい事件の渦中に巻き込まれていくという展開は、ラノベ的構文でもはやおなじみのものです。そんな彼が、ある日、自分に気のありそうな女性と出会うというプロットも今まで散々見ました。

この作品のテーマをどう見るかによって評価が変わることはありません。結局、何が伝えたかったのかが不明瞭なのです。友情がテーマというわけでもなく、主人公と女の子のラブロマンスというわけでも、家族がテーマというわけでもない。おそらくこの中では友情が主題として近しいと思いますが、ウィリーの言動を見れば印象に薄いのが本音です。

あれだけの事件に巻き込まれながら特に大きな変化が起こらないわけですが、鳥の鳴き声の代わりに銃の発砲音がするスラム街では日常茶飯であることを考えると、実はかなり変な話でもあります。そういうものなのだと受け止める他ないのかもしれません。

スリー・ビルボード

映画『スリー・ビルボード』オフィシャルサイト| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント

スリー・ビルボード』予告編

内容は重たい悲劇でも思いのほかユーモアがあって面白かったです。たんに復讐劇としてみれば途中で目的は達成されますが、この映画はそのあとに続く空回り気味の人間もようが見どころでしょう。

ただ、私がこの映画を見終えて考えていたことは、空回りしていく人間もようではなく、行き場のない怒りや憎しみをプロパガンダに乗せることの効能と副作用でした。*1この映画のケースでは看板でしたが、たとえばSNSで私たちは何度とか目撃したことがあるかもしれません。ひろく拡散されたアフォリズムがあるとき善意のメッキが剥がれ落ちていくさまを。そうしたプロパガンダには一つの閉鎖的なコミュニティを突破するために、強い言葉やパフォーマンスで人々を煽り次第にエスカレートし炎上することもしばしばあります。

この映画は、直接的な差別表現が豊富で脚本としてわかりやすく観客に提示していました。娘を殺された主人公ミルドレッドはレイプ犯の捜査が進まない地元警察への憤りと疑心から、たったひとり過激な言動でくり返し田舎村の人々に訴えかけていました。しかし、この作品の根底にある主人公の悲しみと弱さを目撃したとき、はたして意図的なプロパガンダの背後にある、本当に伝えたいメッセージなるものとは何なのか。あるいは非合理な意図的行為である自己犠牲に目を向ければ、ミルドレッドが住む田舎村の閉鎖的なコミュニティで個人が共同的に生活するためには、自己を犠牲にする可能性に付きまとわれているのでしょうか。彼女はただ黙って捜査が進むのを待っていればよかったのでしょうか。

私たち(そして私)は善良と邪悪で二分される道徳的な物差しで自分自身をはかることができない傾向があります。なぜなら仮に自分で作った主観的な物差し(善悪)を用意したとして、私はあてがった物差しを自分で見ること(つまり数量的に自分を主観的に客観視する経験やその記述)が何を意味するのかよくわからないし(いったい誰から見られた光景?)、そもそも定量的なものとして評価する機能をもたないからです(主観的なものであれば、自分に都合のいいように作った物差しかもしれません。そして、自分に都合のいいように作った物差しはどんな値であれ私にとって正しい値を指し示すでしょう。そしてすべての値が正しいのなら、差異を測れないので、物差しとして機能していないことと同義でしょう。では、自分に都合のいいように作った物差しかどうかを知る術は?同じ論理に従えば、物差しを評価するための新しい物差しを用意することですが、これは無限後退に陥るでしょう。では、物差しへの新しい説明を設けた場合、物差しという考え方をあいだに挟む理由がないように思えます。つまり「道徳的な物差し」という観念に拘泥する理由が見当たらないのです)。

自分の家族を含めた、大多数の人々が立て看板に対して冷ややかな目線を送る中、ミルドレッドだけが希望を託しすがるような目線で見上げ、愛娘や小鹿に向けるような柔らかい目線を注ぐのはどこか宗教的な救いを求める目線にも似ています。
ミルドレッドが立て看板を最初に見つけた時の表情と、終盤のある人物に向ける表情の違いがこの映画の救いであり絶望にも思えました。

さよならの朝に約束の花をかざろう

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』公式サイト

さよならの朝に約束の花をかざろう』PV映像(マキアとエリアル篇)

布で言葉を交わすイオルフ族や竜族レナトが住まうファンタジー世界でくりひろげられる、主人公マキアの成長譚。強い繋がりをもつことは長生きするイオルフ族にとって、年齢的な意味で(同じ時間を生きられるのはほんのわずかで、相手が先に逝ってしまい取り残されてしまう側であるから)出会いには別れの寂しさがつきまとう(イオルフ族が別れの一族と言われる所以でありラシーヌが「外の世界で、誰も愛してはいけない」と言ったように)けれど、ともに過ごした時間はかけがいのないもの(永遠の一瞬)だというお話。それは最後のバロウのセリフが象徴的でした。出会うために別れるように、「別れの出会いをしよう」と。
君の名は。」のような美麗な映像と音楽、感動的なストーリーで涙を誘うと謳われた今作。個人的に、感動というより考えさせる映画でした。とても惜しい作品だなと。結論から言えば、脚本が綺麗すぎたというべきでしょうか。
というのもストーリーの大筋は平凡で、タイトルロゴが画面に表示された時点でオチががわかってしまい、実際予想されたエンディングを迎えることになります。
まず最初に出た感想はエリアルの物語も見たかったということです。この映画はどこまでいっても主人公マキアの物語なので、息子エリアルにフォーカスを当てた物語ではありません。補間としてエリアルの回想が挿入されていますが、マキアから見たエリアルの物語だけでなく、戦争孤児になった過程や幼馴染との再会を果たしたシーンなどエリアル自身の物語を見たかったというのが本音です。
なぜなら、マキアが中盤でいかにダメな母親を演じていたのかがずっとわかりやすくなるし、エリアルの心情にもっとフォーカスすることでみえてくるマキアの一面もあったのではないかなと。そうすれば、互いの心理描写がより相補的なものになって良かっただろうと思うのです。
たとえば、マキアは自分に都合が悪い話の流れに向かうとエリアルをくすぐるシーンがありますが、これをエリアルがマネをしたシーンでは、マキアは激怒するというトンデモナイシーンが挿入されており、彼女の母親としての身勝手さが垣間見えるシーンがあります。もちろん、これはエリアルに対する怒りの描写ではなく、母親としての不甲斐なさやいらだちを表現する描写です。それはそれで良いのかもしれませんが、幼いエリアルとの関係に亀裂が入る、最初のきっかけでもあります。まさに、このとき怒りを向けられたエリアルの心理描写がもっと欲しかった。
また、エリアルが親離れし自立して妻子をもち戦争にも命からがら生き延びて、これから夫婦円満に生活を送っていくというまさにこれからのタイミングで、マキアは偶然(!)再開したエリアルに自分自身の母親としての不甲斐なさやコンプレックスを吐露し、幼きエリアルとした十五年前の約束は守られていたと公言する展開*2は、本格的にエリアル夫婦の関係を破壊しかねない最悪のタイミングで、あのときエリアルが「行かないでくれ、母さん」と叫ぶシーンで心変わりを起こさないか心配してしまいました。お産を目撃し手助けもしたマキアはなぜあのタイミングで言ったのか、不信感が積もる話でもありました。正直なところ、覚えているかも曖昧な幼い頃にした約束を、あの場面まで覚えていたエリアルにむしろ感動したぐらいです。
この映画はさまざまな母親像を示すという点で野心的な試みをしていますが、重たいストーリーに寄せた脚本を作ろうとして、後半はやや説明不足な部分もありました。攫われたレイリアは、好きな人を殺され自由に外出することも禁じられ、望まない出産をさせられ、まったく悲劇的な母親として再登場しました。こうした悲惨で生々しい話をファンタジー世界で描く手法は、今期アニメのゴブリンスレイヤーに近しいものを感じます。彼女は、生んだ子どもメドメルと顔を合わせることもできず、その子どもに固執し発狂寸前になっていくわけです。いつも顔を合わせるのに母親としてどうやって振る舞っていいのかわからなかったマキアとは対称的です。そんなレイリアが「さよなら。私のことは忘れて」と言ってその固執から開放されて、ほぼ初対面の娘の前で、偶然(!)通りがかった塔から飛び降り、マキアが同乗するレナトの背中に偶然(!)飛び乗ります。このシナリオはちょっと脚本ができすぎな気もしますが、マキアと対称的な母親像を示すことにある程度成功しています。ただ問題は、結局クリムは報われることもなく想い人を救うこともできずに殺されて終わってしまう点で、蟠りが残ります。彼は脚本の都合で殺されてしまったようにみえるからです。偶然が連続する脚本はあまりに出来すぎている印象を与え、この物語が脚本家の手によって作られたことをメタ的に意識せざるを得なくなるわけです。*3
この映画はたとえわが子でなくとも種族さえ超えて愛を持って育てることが出来る、あるいは母親として子供が先に逝かれてしまおうとも、それまで培ってきた思い出こそが素晴らしいものであるという肯定があります。
しかしこの映画に関して言えば、どうしても親のエゴというものが弱点として透けて見えてしまうのです。たとえば「エリアルの嘘つき。守ってくれるって言ってくれたじゃない」と嘆くシーンにはまだ彼女が母親として自立していない弱さや思い上がりが読み取れるし、終盤のマキアがエリアルに母親として認められるシーンはあの流れではどうしても傲慢に見えてしまうからです。つまりあの約束にどこまで固執しているのだろうかと思うわけです。もしも、ある父親に「しょーらいはパパとけっこんしておよめさんになるのー!」という約束をした娘がいたとして、その約束を十五年後まで求める父親がいるでしょうか。マキアがエリアルを自分のヒビオルと同一視し、戦争孤児を拾って育てるという一連の営みには、まるで自分の孤独を解消するためにペットを拾って育てるようなエゴをそこに見て取ってしまうのです。
ポスターのキャッチコピー「愛して、よかった。」の「よかった」とは一体どういう意味なのでしょうか。映画のラストに高らかに表明する言葉です。そもそも、愛することはよいよくないという区分上にはあげられるのでしょうか。わたしたちはまさに「愛している」のではないでしょうか。こうした傍白ないし独善にも捉えられるセリフがキャッチコピーとなるのは、まさにこれがマキアの物語であるからであり、さよ朝には第三者的視点がないがゆえのセリフだからでしょう。
私たち(そして私)は善良と邪悪で二分される道徳的な物差しで自分自身をはかりえない傾向を持ちます。こうも言いかえられます。自分でどこからか用意した価値基準で、まさにその価値基準をおいた当の<これ>を判断(評価)することは、ある特定の生き方を規範化します。子育てに関する親のエゴという問題について、この映画は何も返答しないし、ただ思想として輸入されてしまう。現在、反出生主義(Anti-Natalism)という哲学的立場があることを鑑みれば、これはいくらか問題であるように思えます。

*1:ここでの「プロパガンダ」は政治的主張に限らない広義な意味で使っています。

*2:たとえば「やがて君になる」で佐伯沙弥香と中学時代に好きだった先輩が偶然再開し、先輩が偏狭な考えで謝罪するような展開

*3:たとえば18禁ゲームのエッチなテキストを読んでいるときに、「これはおっさんが書いたものだ」とメタ的に意識して萎えてしまうような心理状態と類似しています。

アフィリエイトブログに写真を無断転載された話

自分のブログの写真がアフィリエイトブログに無断転載されていることに偶然気付いたのは今から二日前の深夜。

なんとなく、フレグランスメーカー「モダンノーツ」の新作についての感想を漁っていた時の話。

私のブログに掲載した写真によく似た画像を使うブログに偶然とんだ。

はじめは、何かの見間違いだと思い自分のブログ記事を確認し比較すると、どうやら間違いない。無断転載というやつだ。

無断転載された写真は2016/08/23 21:11に私の所有するカメラα6000で私自身が自室で撮影したもので、最近のデジタルカメラの記録媒体には、詳細な記録情報がある。

元画像はむちゃくちゃに圧縮されて、さも記事を書いたブロガーが使用していると捉えられる文面ともに掲載されていた。その記事は私の記事と同じく、男性向けにフレグランスを使う際の使用感や注意事項などが記載されており、画像は自分の使用感を表明するために利用されていた。その画像が無断転載となれば、記事の信ぴょう性が著しく低いことは明白だった。

一般的に、写真は創作された時点で自動的に著作権が発生する。他人に著作権を譲渡しない限りは、撮影者に著作権があるのが原則だ。

www.jps.gr.jp

ウィキによれば故意に著作権侵害をした者に対しては刑事罰が課されることもあるようだ。

著作権を故意に侵害した者は、10年以下の懲役または1000万円以下の罰金に処せられる(懲役と罰金が併科されることもある)(119条)

今回問題となるのは、

  • 私が撮影した写真についての出典を明記していないこと。
  • 写真が転載されていることを私は事前に知らされておらず、写真の著作権を譲渡していないにもかかわらず無断で利用されていること。
  • その私の写真を無断で利用した記事はアフィリエイトによって収益化されていることなどが挙げられる。

また事前に、私のブログには無断転載を遠慮いただきたい旨も記載していた。

monpanache.hatenablog.com

以上のことから、写真の著作権が侵害されていることは明白だった。

はじめに相手側のブログのコメント欄に私の写真であることの報告と写真の無断転載に伴う記事の信ぴょう性の乏しさを批判、そして写真を取り下げることを要求する書き込みをした。ブログのコメントが確認されないことも考えてツイッタ―をやっていたので、そちらにも書き込みをしたことを報告するリプライを送った。が、あえなく無視される。

なので今朝、グーグルに権利侵害申請をした。即日で要請が通った。

一応、2日も返事を待ったのだから、これぐらいのリスクはあって当然だ。容赦している場合ではない。

ネット上の多くの無断転載された前例から助言を借りて、Whoisを使って相手のドメイン管理会社も判明した。ドメイン取得日は 2017年08月12日であることも分かった。

そのドメイン管理会社には「不法行為・迷惑行為の報告」の窓口がある。ここに提供された情報を元に、対象ユーザへの事実確認などの調査が行なわれる。ので「著作権の侵害に該当するコンテンツ」として報告しようと思ったが、本名があちら側に開示されるという。

多くのネット上の前例をみるに、最終的には警察や弁護士に相談するのが正当な方法であるようだ。そこまでするほど暇ではない。次やってきたら速攻で倒しにいくだろう。

無断転載されたのは正直腹が立つわけだが、私のブログにも改善の余地があるので、右クリック・範囲選択禁止などのスクリプトを使用してみた。ちゃんと機能しているだろうか。

この対応は時間稼ぎでありその場しのぎではあるが、現状、無断転載を完全に未然に防ぐことも敵わないのは、いろんなサイトを回るにつけ致しかたないのかもしれない。

なにか、ほかにいい方法あれば実行したいけれど。それだけはくやしい。

無断転載に関してはこちらから全力で叩きのめすことが最善手になってきているので、一昔前のような泣き寝入りもなくなってきているのは、多くの前例が教えてくれ勇気づけてくれた。

やろうと思えばやれるのだから、知らないフリや無視をし続ければどうにかなると思ったら大間違いだ。今回の件は、再度返事の催促をしたところ連絡がついさきほど届いた。記事の写真も撤回されていることも確認。無事落着し、一安心だ。

今回の件を教訓としてみれば、広い意味での暴力に言論は萎縮してはいけないということだ。今後も写真は残していきたいし、好きなことを好きなだけ書いていきたい。

【2018年E3】小島秀夫『デス・ストランディング』の最新トレーラーを考える

というわけで、前回に引き続き公開されたトレーラーに沿って考えていきたいと思う。

DEATH STRANDING - Teaser Trailer – E3 2018 - 4K - YouTube

お馴染みの赤ん坊が親指を立てるところからはじまる。

黒タイツの謎の女性が初登場。彼女は敵対者を直接見ることができる一方、サムはできないが(後ろのアームを作動させることによって)感知することができるという。後ろのアームは赤ん坊のカプセルと連動して作動する探知機であることが前回の動画で判明したが、今回はこれを強調している。赤ん坊が入ったカプセルとつながるプラグの形に着目する(6:03)と、前々回のトレーラーのデルトロが用いたプラグの形をしておらず、左腹部あたり?に差し込んでいる。

女性の服飾にはFRAGILE EXPRESS HANDLED WITH LOVEと書かれている(4:59)。配達を担う組織の名前か?どうやら彼女はサムと同業者らしい。

謎の女性はサムを引き抜こうとするが、配送業に勤しむサムであった。前回のトレーラーではサムは敵の死体を運んでいたが(今回のプレイアブルでは担いでいる)、運べるものなら特に限りはないようだ。

今回の動画で、追尾してくれるポットのようなものや、クレータ―に落ちていく二輪車のようなものが確認できる。こうしたメカニクスは自作なのか、あるいは前回の動画に登場したBRIDGESという組織から支給されたものなのか。おそらく後者と思われる。

サムが持ち歩く荷物は膨大で、これらは配達物であるようだ。今回の動画はサムの散歩あるいは配達に勤しむ姿が長回しで映されている。機械だけでなく、人間が運ぶことは敵対者に襲撃されるリスクがある仕事だが、前回の動画の横転した車両を見るに、おそらく地形変化などに機械がうまく対応できないのかもしれない。あるいはGPSが作動しないとか?

動画では今まで登場した灰色の防護服を着たサムと、新しく青色の防護服を着たサムが登場する。青色の防護服を着たサムはその容姿からして老けて見え、彼がいる世界の地表の様子は、緑に覆われ、ある程度大きな川も流れていて、鳥のような生き物も確認できるくらいには平穏に見える。

また青色の防護服を着たサムの左足についている輪状の形の手綱のようなものがある。謎の女性の太ももの付け根にも似たものがついていることが確認できるが、引きちぎられたような跡がある(5:13)。また青色の防護服を着たサムはマッツさんと同じようなボシェットを着用しており、赤ん坊のカプセルをもっている(3:03)が、灰色の防護服を着たサムはもっていない。

小島秀夫さんは以前のIGNインタビューで雨が時間を進めてしまうもの(timefall=時雨)であると語っており、ノーマンの皮膚に落ちた水滴の部分だけ老化していく描写や雨が降ると植物が急成長しやがて枯れてしまう描写など、今回の動画はこれを強調している。

「違う世界の雨なので、この世界の人間にあたると、(当たった)瞬間だけ時間が進むんです。一回当たって地面に流れると普通の水になります。空中にある別の世界の雨が、この世界の物に当たった瞬間だけ時間が進みます」

この雨が別の世界から持ち込まれたものであり、現実世界と向こうの世界が作用し合っている。普通とは違う形のマルチプレイ要素?がここにあるように思える。

敵対者の接近によって、サムは鳥肌が経ち(よく見ると腕毛が逆立っている)アレルギー反応がおこり赤い発疹が右半身にでる(これもカイラルアレルギーの症状か?)。髪には霜がつき吐く息も白くなるほど、急激に周囲の気温が低下していることが分かる。また、敵対者の接近によってChiralium density(カイラル濃度)という濃度も増加するらしい。ウィキによれば、

キラリティー (chirality) は、3次元の図形や物体や現象が、その鏡像と重ね合わすことができない性質。掌性。

キラリティがあることをキラル (chiral) という。英語風の発音でカイラリティ、カイラルともいう。これらの語はギリシャ語で「手」を意味するχειρ (cheir) が語源である。

ということだが、詳細は不明。

サム自身と妻と娘と思わしき写真(0:50)について、サム以外の他の二人はどうしたのか。サムの過去が気になる。

最後に登場する写真の人物によく似た若い女性は、なぜかサムを一方的に知っているがそれはなぜか。サムは死に戻りを繰り返すうちに記憶を失っているのかもしれない。あるいは、この女性はタイムフォール等の影響でサムたちとは違い、若返ってしまうのかもしれない。小島秀夫さんは「時間が進みます」とだけ言っているし、必ずしも老化することだけを指すとは限らない。いずれにしろ、この世界の仕組みが二人の関係を引き裂いているようだ。

Cryptobiosis(クリプトビオシス。クマムシなどの一部の生物がある環境下で、活動を停止して無代謝状態になること)がタイムフォールに有効であることをサムに教える女性。直後にドヤ顔であの気持ち悪い昆虫のようなものを食べる。このCryptobiosisという無代謝状態は、一種の仮死状態であり外部からの影響(高温、高圧、低温、放射能汚染など)を受けにくくなるらしい。昆虫を食べることでサムはタイムフォールに対抗できる何らかの能力を得ているのかもしれない。ゲーム的文脈で言えばこれはバフや回復アイテムの一種といえそうだ。

会話の中で疑問点がいくつかある

So you have DOOMS like me.
What's your levels?

  • 謎の女性とサムはDOOMSという特殊な能力?を持っており、何らかのレベルがあるようだ。これは二人が共通して涙を流していることと関係があるのかもしれない(カイラルアレルギー)。涙を流しているのは今のところこの二人だけで、必ず片方の目から涙を流す。(非対称性)(追記)前回のトレーラーを確認すると仲間を救出しようとしたおっさんも敵対者の接近時に両目から交互に涙を流していた。

Sam;I've got the extinction factor,but I think you got me beat.

  • サムはextinction factor(絶滅因子)を持っているが、女性には及ばないという。extinction factorとは具体的に何を指すのか?

Sam, if one of those things eats you,it will trigger a voidout.
You'll come back, sure,but surrounding area will still be a crater.

  • 敵対者(BT)に捕食されるとvoidout(対消滅つまり前回の動画でいう爆発)が引き起こされ、なんとこの世界に帰ってこれるが周囲はクレーターになっていると言うのだ(プレイヤーは死ぬ直前ではなく、自分が死んだ直後の世界に戻る)。これは前回の動画の爆発的な光を放って敵対者に仲間が取り込まれることの説明と言えそうだ。ただし、前回の動画では仲間は死に怯え自殺を図ろうとしていた。これを見るに、死んだ世界に戻ってこれる能力はサムだけであるといえよう。(日本語版のトレーラーではサムは帰還者と呼ばれている)前回の動画に関するインタビューでも小島秀夫さんはこう語っていた。

「(ティザートレーラーでは)爆発の後、クレーターがあいてましたけど、(復活した後も)あれはあいたままです。普通のゲームはクレーターが出来る前に戻ります。ですので、プレイヤーによっては爆発しまくると、穴だらけになり、地形も大きく変わってしまいます」

インタビューで語っていた「生と死が一つのテーマになっているので、ゲームで死んだということをちゃんとわかって欲しいと思っています」ということの再確認ともいうべきセリフだ。

(追記)

  • (4:39)女性がサムと手をつなぐと、サムにも敵対者が見えるようになる?
  • 日本語版のトレーラーが公開されたので、翻訳をトレーラーに合わせた。
  • カニ成分が足りない。愛しのカニ
  • インタビュー動画で小島秀夫さんはこのゲームについて「戦って、敵を倒すことが目的ではない。世界を繋いでいくことが目的。とはいえ、シューティングが好きな人もいると思うので、そういうこともできるが、オススメできないしそういうゲームではないというのがプレイをしているとわかってくる仕組み」と語っている。

 

気づいたことがあれば追記したい。前回の記事↓ 

monpanache.hatenablog.com

お散歩

少しずつ元気を取り戻してきたので、何枚か。

毎年、春に体調を崩す私にとってみれば、春はずいぶん暢気な風来坊さんで、いつもそいつに振り回されている。そうやって相手にしているうちに私は生きていることをあらためて実感する。

生きることのうちには、始まりと終わりを絶え間なく繰り返し入れ替える新陳代謝みたいな永続的機構がある。その永続的機構が機能しなくなっていくと無が積み上がっていく。日々の暮らしのうちにいつの間にか積み上げていた無をゆっくり捨てる周期的な期間。それが春なのだと思う。捨てるためにはどうしても無と対面しなきゃいけない。その猶予期間内の症状(あるいは反省)が春うつなのかもしれない。(その猶予は日本社会が要請したものだから皮肉だなあ)

リバーシブルジャケットのように、終わりと始まりが隣接するこの季節に生じた違和。それすらもいつの間にか日常に戻す春に、絶望と感謝をしている。