紙と鉱質インク

これらのスケッチは明暗さまざまな心象を(そのとおり)写実した言語記録(紙と鉱質インク)です

サクラノ詩 ZYPRESSEN In Yumi Perspective

サクラノ詩(以下、サク詩)についての考察は、これまで幾度となくされてきた。これまでの考察では、素晴らしき日々をはじめとする、ケロQや枕の他作品との共通項を見いだすこと*1、あるいはウィトゲンシュタインを含む哲学や芸術全般からのアプローチ*2が多かったように思える。

サクラノ詩はそのボリュームから汲み取れるものは大きい。それゆえ、サク詩を可能な限りで多角的にとらえていくことで、その伝えたいこと「瞬間を閉じ込めた永遠」を我々ユーザーは吟味する必要があると考える。ここでは、「文学」というサク詩のもうひとつの側面に着目し、とくに宮沢賢治の思想、詩作、童話、いわゆる宮沢賢治論からサク詩 Ⅲ章ZYPRESSEN・Marchenの新たな視点を与えてみたいと思う(ネタバレ注意)(17169文字)

構成として、はじめに宮沢賢治の恋について記述し、そこから賢治童話「ガドルフの百合」と賢治本人との連環を見いだす。その道程から見えてくる宮沢賢治論の眺望を、川内野優美の眺望点に重ね合わせることで、サクラノ詩の新たな眺望を報告し結びとする。

閑話休題

前知識としてサク詩でも数多く引用されている人物、宮沢賢治(以下:賢治)の恋について整理し、書き記しておこう。⚠️ここから長い前書きが続きます。手っ取り早く本題に入りたい方はガドルフの百合Ⅱへどうぞ。*3

賢治は大正二年(1914)四月から、肥厚性鼻炎のため約一年間だけ岩手病院に入院していた。賢治がまだ十八歳の頃である。同年、病院でお世話をしていた看護婦(今なら看護師)に恋をし、賢治は自分の父に結婚の許可を求めるまでの片思いをするが、戒められ失恋をする。賢治の片思いは退院後も続き、家業の嫌悪もあいまってノイローゼ気味となり、そのころの体調や思いを賢治は短歌に詠んでいる。

164 わなゝきのあたまのなかに白き空うごかずうごかずさみだれに入る

165 ぼんやりともからだもうす白く消え行くことの近くあるらし

166 目は紅く関折多き動物が藻のごとく群れてをはねあるく

167 物はみなさかだちをせよそらはかく曇りてわれのはいためる

168 この世界空気の代りに水よみて人もゆらゆら泡をはくべく

歌稿A 大正三年四月

*4*5

続く短歌はやや狂気じみてみえるが、賢治の煩悶がうかがえる。彼はファウストを愛読していたため、ある程度は意識しているのかもしれない。

169 南天の蠍よもしなれ魔物ならば後に血はとれまづ力欲し

170 いさゝかの奇蹟を起す力欲しこの大空に魔はあらざるか

171 げに馬鹿のうぐひすならずやわれ夜の空にねがへる時をなきたり

歌稿A 大正三年四月

ここで注目すべきは、はたして賢治が起こしたいと思っている「奇蹟」とは、いったい何なのか、ということである。賢治は、のちに「みんな」の「ほんたうのさいはひ」を本心から願うようになる。その思想は銀河鉄道春と修羅など数々の作品の中でも語られている。そういった万人共通の、愛の観念があり、救済の観念がある奇蹟なのかという考えも浮かぶだろう。しかし、ここで賢治は蠍座を魔物と見立て、その魔物と契りを結んでその奇蹟を起こす力を得ようとしているわけであるから、そんな宗教的な利他的な事柄ではないのだろう。(一種の中二病という説もあるかもしれない)血を魔物に捧げるという行為から想像されるのは、賢治は代償を払って「賢治自身のための」何らかの奇蹟を願っているのではないかといえる。

上の蠍座の短歌群の次には、初恋の人を思慕する歌が並ぶ。そしてさらに「歌稿〔A〕」を見ていくと、童話「ガドルフの百合」のモチーフになった連作短歌が現れる。このあとに続くあらすじと見比べるとそれがよくわかるだろう。

192 いなびかりそらに漲ぎりむらさきのひかりのうちには立ちたり

193 いなびかりまたむらさきにひらめけばわが白百合は思ひきり咲けり

194 空を這ふ赤き稲妻わが百合の花はうごかずましろく怒れり

195 いなづまにしば照らされてありけるにふと寄宿舎が恋しくなれり

196 夜のひまに花粉が溶けてわが百合は黄いろに染みてそのしづく光れり

歌稿A 大正三年四月

ガドルフの百合

宮沢賢治の短編童話「ガドルフの百合」とは、一人旅を続ける青年ガドルフが嵐に襲われて逃げ込んだ家で見た幻想を描く作品である。この難解な作品は、ガドルフの恋愛的な煩悶がテーマとして考えられている。つまり、主人公ガドルフの「内面の葛藤=苦悩」と「新たな一歩を踏み出そうとする決意」があるとされる。*6まずは、あらすじを見てみよう。あらすじを知っている方は読み飛ばしてしまって構わない。

あらすじ

主人公ガドルフは、みじめで憐れな旅の道中に激しい雷雨にあい、誰もいない巨きな真っ黒い家で一夜を過ごすことになる。

その稲光りのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨きなまっ黒な家が、道の左側に建っているのを見ました。(この屋根は稜が五角で大きな電気石の頭のようだ。その黒いことは寒天だ。その寒天の中へ俺ははいる。) ガドルフは大股に跳ねて、その玄関にかけ込みました。(ガドルフの百合

どうやらひどい頭痛もあるようだ。(煩悶と捉えることも出来る)

そのガドルフのと来たら、旧教会の朝の鐘のようにガンガン鳴って居りました。(ガドルフの百合

室内に射し込む稲光りが明滅する中「誰もいないのだろうか」「ここは寄宿舎か」と歩き回るガドルフ。そこで窓から真っ白に光る十本ばかりの白百合が咲いているのを見た。

けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白百合が、十本ばかり息もつけない嵐の中に、その稲妻の八分の一秒を、まるでかゞやいてじっと立ってゐたのです。

 それからたちまち闇が戻されて眩しい花の姿は消えましたので、ガドルフはせっかく一枚ぬれずに残ったフランのシャツも、つめたい雨にあらはせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺らぐ花の影を、じっとみつめて次の電光を待ってゐました。

 間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のやうに青く浮び、雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋って立ちました。

(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)ガドルフの百合

ガドルフの願いもむなしく、激しい風雨のために、十本ばかりの百合の花のうち、いちばん丈の高い華奢な一本が、無残にも折れてしまう。*7

(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ。)ガドルフの百合

 ガドルフはこう思って眠りに入り、夢の中で二人の大男が格闘らしく組み合う様子を見る(これがガドルフの内面の葛藤を表している)。その後、雨の上がった夜の道をガドルフは再び歩き出す。

窓の外の一本の木から、一つの雫が見えていました。それは不思議にかすかな薔薇いろをうつしていたのです。

(これは暁方の薔薇色ではない。南の蝎の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街道の星あかりの中 だ。次の町だってじきだろう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。

ガドルフはしばらくの間、しんとして斯う考えました。(ガドルフの百合

この作品の解釈はいくつも存在するが、百合が示すものが重要になることは確かだろう。この「ガドルフの百合」は、賢治の多感な時期の出来事が色濃く関係している。つまり初恋の人への恋愛と挫折を経験し、それを全ての事物に対して(道端に落ちている小さな石ころから、この銀河宇宙においてさえも内包する)包括的なまことの愛「宗教愛」を目指し昇華していく物語にしているのである。そういった愛についての道のりをあらわしたガドルフの心象スケッチといえる。「大男が格闘しあう夢」には、「恋愛から宗教愛への変革における自己の苦悩」という内面の葛藤につながる。そして「ガドルフの百合」の最後に、「南の蠍の赤い光」が出てくることは、特筆すべきことだろう。蠍の赤い星は、一滴の雫を薔薇色に光らせて「おれの百合(=恋)が勝った」ことをまるで祝福しているかのようである。つまり後述するが、彼の内で高次の『恋愛』が一面的『性欲』に勝ったことを意味するのではないか

ここで前に習った、歌稿Aの169-171の短歌群において、賢治が蠍の星に「奇蹟を願った」ことと筆者は関連を感じる。賢治が蠍に願った奇蹟とは、賢治自身の一義的な「恋の成就」だったのではないだろうか。

ガドルフの百合Ⅱ

ここまで、「宮沢賢治」と「ガドルフの百合」の関連を示してきたが、サク詩Ⅲ章と「ガドルフの百合」にも似通ったところがあるように思われてならないのである。(という意味は、もしそうでなければサク詩Ⅲ章はつまらない、という意味である。)例えば「台風のような嵐の夜=激しい雷雨」と考えられるだろうし「点滅する空=稲光りが明滅」「真っ黒な糸杉の公園=巨きな真っ黒い家」と読み直すことができるだろう。さらに、ガドルフ自身が夢を見るという体験もZYPRESSEN・Marchenと整合性があるだろう。

こうした多くの類似点は偶然なのだろうか?ここで一つの根拠を提示したい。ガドルフの百合の象徴的なモチーフ「白百合」についての次の画像である。白百合は過去回想・EDで登場している。幻想的な雰囲気の演出、あるいは里奈の純潔さ無垢さを表現するために、白百合が使われたのだと考えていたが(白百合の花言葉は純潔、無垢、威厳)こうした関連を知っていれば必然の演出表現であったとも言える。ちなみに確認した範囲では、百合を題材にした宮沢賢治の作品は「ガドルフの百合」のみであり*8、百合要素を含むZYPRESSENであることも整合があるだろう。

ZYPRESSEN・Marchenの過去回想では優美視点で物語が語られていた。つまりこれはガドルフの視点を模倣した物語であると解釈できる。(というより、私はそのように解釈した。)よって今度は「サクラノ詩」から「ガドルフの百合」を少しずつ読み解いてみようと思う。

「ガドルフの百合」はみじめで憐れな旅人ガドルフが激しい雷雨にあったことで起きた事態である。「みじめで憐れな旅人ガドルフ」とは「原罪を抱えて生きる優美」に対応している。優美は異性ではなく女の子が好きという原罪を抱えている。それは彼女にしてみれば当たり前のことで、最初から異性を愛するという選択肢は存在しないからだ。これは蠍やよだかが昆虫類を常食することと何ら相違ない。他者を喰らうという原罪を冒してきたことに気づいたために、蠍やよだかは「罪悪感」をもつことになる。彼女はこう語る。

ZYPRESSENの夜。 私は彼女を好きになった。

そしてよだかは青い炎となり、蠍は赤い炎となった。

けれども、醜い私は、何にもなれなかった

よだかと蠍はそれぞれ炎として自己を昇華させていく。一方で、優美は何にもなれず醜い私のままである。一体何が彼らを決定的に分断したのだろうか。これを吟味していく前に、賢治童話『よだかの星』と銀河鉄道の夜に登場する『蠍の炎』をみていこう。

 よだかの星と蠍の炎

氷川里奈は『蠍の炎』を語り 、川内野優美は『よだかの星』を語る。両者の違いについてサク詩では直接的にあまり言及されなかった。ここでいま一度、振り返ってみることにする。

よだかの星

 賢治童話『よだかの星*9 』の主人公「よだか」は、生まれつきの容姿の醜さや周囲から軽くあしらわれたり、疎まれたりすることを悲しむ。それはちょうど、原罪を抱えて生きる「蛆虫の精神」を持つ醜い「私」が周囲から疎外・嫌悪される悲しみに一致している。ここから「よだかの星」と「ガドルフの百合」の一つの共通項を見いだすことができる。つまり、よだかとガドルフ、そして優美は自身を「宿命的な苦悩的存在」であると自覚している。それは賢治が自身の内なる「怒り」や「性欲」や「悲しみ」を自覚するなかで、「人よりも手前にあるもの」すなわち、ひとりの「修羅」として「私」を意識することに由来する。

彼女達は内心、上級生の女生徒に同情し、逆に、私達を恐れ、そして忌み嫌っているだろう。

悲しいかな、その事だけは、私にも残る女特有の勘が、はっきりと彼女達の嫌悪を感じ取ってしまっていた。

本当は私だって女の子の輪に入りたかった。

私は「私」を愛するよりも、美しい同性を愛した。

たぶん、それは自己投影の一種だったのだと思う。

私は氷川さんになりたい。

仄かにゆらぐ弱々しい青い炎になりたい

疎まれ嫌われるよだか「優美」にとって、「氷川さん」は鷹のような存在なのかもしれない。白い服で、「太陽光を乱反射させ、まるで自分が輝いているかのよう」な氷川さんは「草食動物の中に紛れた美しい鳥のように見えた」わけである。そんな「彼女の美しさが、死と隣り合わせであること」を知った優美は励ますこともしない自分を「蛆虫の精神」だと自嘲する。「彼女がまるで月の様に、青白く光る炎の様であるのは、彼女の生が外からの光の反射でしか生み出せず、その全身が死という暗闇に沈んでいる事」に醜い「私」は歓喜する。そんな彼女の罪・醜悪さに対する罰は氷川里奈を大好きなことなのだ。

私は彼女に恋した。

その美しさの理由を知った今、私はますます彼女を好きになった。

死と隣り合わせの少女。

彼女はそれ故に美しかった。

「よだかの星」ではその後よだかは前述の殺生の罪悪感を含めて、生き物の暗い宿命に苦悩する。それは自己の生まれつきの容貌や能力が、他よりも劣っていることに対する悲しみと羞恥心とが苦悩の種子としてある。どうにかこの苦悩から逃避しようとよだかは「太陽」や「星」などすぐれた境地に希求するも脱却できない。しかし、よだかは自身の苦悩と向き合い、苦悩の底に身を焼き滅ぼし自己放棄することによって燐の火のような青く美しく燃え続ける星となる。自己の醜悪さ、苦悩を別のあり方の具象化として昇華させる、という逆説的な救済の結末を迎えるのである。他に頼ることなく、「ただ一つの僕」の実存を解体して、一つの高い次元の境地に到達する宗教的描写である。決して「死を象徴するものでありながら、喜んで受け入れていたかの様な作品」ではないのだ。*10

 美しき物は、美しき物で出来てはいない。美しさの裏には禍々しいものがべったりと張り付いている。これは後々の章でも語られる内容である。

結果が同じだとしたら、奇跡と呪いは似ているように、美しさと醜さも表裏一体、といえるかもしれない。それは「蛆虫の精神」と「奉仕の精神」すら内包する。だから、草薙直哉と川内野優美は似ているのだろう。

蠍の炎

むかし、昔のお話です。バルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫なんか殺してたべて生きていたのです。するとある日いたちに見つかって食べられそうになった

蠍は一生けん命逃げて逃げてたけどとうとういたちに押さえられそうになった、その時いきなり前に井戸があってその中に落ちてしまい、もうどうしてもあがれないので蠍は溺れはじめてしまった

そのとき斯う云ってお祈りしたの

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんな一生けん命にげたそれでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない

どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかっただろう。そしたらいたちも一日中生きのびたろうに、どうか神さま。私の心をごらん下さい。

こんなむなしく命を捨てずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい

そしたらいつか蠍はじぶんのからだが真っ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見た

蠍の炎に関していえば、里奈は焼身願望という言葉で表現していた。里奈は、手術の恐怖や苦悩を感じ、できればこの世から消えてしまいたいという死の望みを享受するに至っていた。それが蠍の炎を焼身願望に結びつけ、死を象徴的に暗示するモチーフと受け取ったわけである。しかしこれは自己の存在を焼き 尽くしたい、あるいはそれを実現するための機会のひとつとして、自己犠牲の行動をすることだけを指すものではない。そこには「まことのみんなの幸い」のために自己犠牲を行う尊い(狂気的な)精神があり、蠍の炎は美しく輝き続ける星となる。これを焼身幻想という。それは言い換えれば、他者の幸福を願い、己の身を削ってでも宿命的な苦悩的存在となること。それによって、かえって苦悩から脱却し新たな生き方としての道を獲得する。こうした思想は宮沢賢治独自の法華経思想に準じている。後半の仏教的解釈を除けば、それは直哉の「奉仕の気持ち」そのものなのである。

櫻の芸術家

サク詩の事実として、ここに櫻の芸術家の存在を無視することはできない。幼少の優美は櫻の芸術家に出会わなければ、レズであると里奈に打ち明け話をしていたのかもしれない。そこに『サクラノ詩』という物語は登場しない。

櫻の芸術家の出現により、事態は一変する。櫻の芸術家は奉仕の心とやらで「里奈が描いていた糸杉の壁絵」の「あの糸杉を桜が咲く絵」に変えてみせた。ここで直哉は奉仕の心を、滅私の精神、有り体に言えば一種の強迫観念から自己の利益や欲求を捨てる精神ではないと否定する。彼は母親の死をきっかけに「中原中也の様な、奉仕の精神」を自覚したと語る。それは狂気的なまでの修羅像。痛みを何度受けてもなお、他者の幸福を願う修羅的存在が直哉に思える。

まことのことばはうしなわれ

雲はちぎれてそらをとぶ

ああかがやきの四月の底を

はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

まことのことばはここになく修羅のなみだはつちにふる

 「修羅」(悩み、悲しみ)とは、まことならざるもの、まことと対照的なものであり、まことに至ろうと努力しつつも、至り得ないでいることへの自省、自虐の姿である。「まこと」を体得することは、すなわち正常で幸福な生の営み「まことの幸福」が行われることを指す。*11「ほんたうのさいはひ」、「まことの幸福」、「みんなの本当のさいわい」、「まことのみんなの幸」など表記の差はあるが、賢治の思想を理解する上で手がかりとなる重要な言葉だ。「銀河鉄道の夜」ジョバンニとカンパネルラの最後の対話には、「みんなのほんたうのさいはひ」が何なのかは「わからない」として明示せず、むしろ「みんなのほんたうのさいはひ」がなにかを問いかけともに見つめていく「探求」の姿勢や生き方にこそ重点があった。このあたりの考察は、サク詩最終章で語られる内容ともやや重複するため省略する。

櫻の芸術家は彼女の死の匂いをかき消そうと、ひとりの少女のため最後の力を振り絞る。彼によって魅力的ですらあった「その不思議な少女の香り」をなくし、里奈は救われたわけである。台風の嵐のような夜の糸杉に囲まれた公園で、里奈と草薙直哉の「糸杉と櫻の協奏」は果たされ、里奈は新たな一歩を踏み出し「生きること」を決意する。これについて優美は直哉という芸術家を恨んでもいるし、感謝もしている。愛憎とはよく言ったものである。

技法の魔術。

技法によってこれほど見え方が変わるものなのかと、と感嘆したと同時に、

私は、その時に、この男の名前を叫んでいた。

直哉「なんだよ。怒鳴るなよ」

直哉「それとも何だ?お前が何か付け加えるか?」

その圧倒的な存在に優美は勝てるわけがない。輝く櫻の森の絵。そこで見せた彼女の笑顔には「氷川さん」の面影はない。「死と隣り合わせの少女」はもういない。その月の様に青く光る彼女はもういないわけである。それは蛆虫の「私」の失恋を意味する。白く美しく光る彼女の百合は折れてしまうのだ。それでも優美は彼女「氷川さん」のことが好きな気持は変わらない。たとえ成就しない恋であろうとも、直哉によって大きく変わった彼女「氷川里奈」も好きなのだ。そんな彼女「里奈」の傍らで「私」はなににもなれず、彼女の輝く笑顔を眺めているのである。

太陽の光を反射して輝く月。月自体は輝きはしない。光源となった彼女の笑顔は太陽と相似形式をもつ。これはZYPRESSENのラストカットにつながっている。

薄紅の雪に包まれて、彼女の笑顔は輝く。

私が輝かないとしても、彼女が輝いてさえくれれば私はうれしい。

だから、私は言う。

優美「がんばってね。里奈!」

結末なんか最初っから分かっていただろう。

結末を知っていたとしても、人は人を好きになる。

それが成就しない恋でも、好きになる気持ちはやめられない。

それを私はよく知っている。

彼女は、氷川里奈は、いつものように輝く。

私はそんな彼女の傍らにいる。

なにも救われたのは里奈だけではない。「蛆虫の精神」を持つ小さな「私」 は彼から愛というものを正しく示されたといっても過言ではない。「じぶんとたったひとつのたましい」と「どこまでもいつしよに行かうとする」ことすなわち「二人で歩む永遠の変容」愛(=恋愛)こそが「決して求め得られないその恋愛の本質的な部分むりにもごまかし求め得ようとする」一方通行の偏向愛(=性欲)よりも高い価値があることを示している。*12*13

ちひさな自分を劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ

小岩井農場パート9より)

彼女の苦悩は消えたかに思えた。しかし、6年後の弓張学園でもまだ続いていることが判明する。成就しない恋でも、好きになる気持ちはやめられない。夢に見る千年桜伝説に触れ、優美は一つの可能性を選択する。

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視点の選択

死を象徴する糸杉が生を体現する桜の咲く絵になったように、不幸に見える人生も視点を変えれば幸福であるのかもしれない。神さまの奇蹟と悪魔の呪いは視点を変えれば神さまの呪いと悪魔の奇蹟なのかもしれないわけである。 私と他者のパースペクティブの問題が隠されていることも触れておくがここでは文学からの眺望点があるため語り得ない。*14(誰かがすでにこの哲学問題に言及しているだろう)そんな物事の見方・捉え方によってただ一つの「私の世界」*15は単なる二項対立を超えて無限ともいえる色を宿すことができる。

誰かの思いと共鳴して開花する千年桜の伝説。夢となってそこに登場したのは二人の悲哀な物語だ。それはまるで前世で結ばれなかった二人の関係ではないかと優美は夢想する。はじめ優美は願いを叶えてくれる奇蹟に対して肯定的であり、それが人生の価値であるとさえ言っている。賢治が赤い蠍に願ったものと同じ自分自身のための奇蹟である。つまりそこに「恋愛」はなく、言葉は悪いが「性欲」があるのみなのである。ここで二つの分岐点が生まれる。

直哉「呪いと奇蹟は似ている。見え方が違うだけだ」

優美「大層な言い方ですね。そんな言い方をする草薙直哉には、確かに奇蹟など無縁そうです」

直哉「ああ、奇蹟なんて無縁だ。人間生きていることそのものが奇蹟的なのだからな。*16無駄な奇蹟なんてまっぴらごめんだな

優美「かっ。何が、生きてるだけで奇蹟的ですか!私は願いがかなってこその奇蹟だと思いますし、それこそ人生の価値だと思いますけどね

直哉「そうかもしれない。そう思うのも良い事だとは思うぜ」

失恋を経験し、氷川里奈の隣に寄り添い歩む決意をした優美は、優美自身のさいわい、里奈との恋の成就を願えば Marchenへとすすむ。Marchenルートは川内野優美の、個人の幸福を体現したルートである。宮沢賢治の農民芸術概論綱要から一節を引用しておく。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

Marchenルートには中原中也の一つのメルヘンを引用する場面がある。メルヘンとは世界を幻想としてとらえるおとぎばなしであり、優美が切望しイメージした世界である。彼女の幸福はそこでは果たされ里奈と結ばれる。しかしそこには新たな一歩を踏み出し「生きること」を決意した氷川里奈はいない。月の様に青く光る「氷川さん」がいるのみである。

動物種という観点から見れば、利己的な愛には愛を二人で育みどこまでも歩もうとする「恋愛」は存在しない。そこには「性欲」があるのみである。だからエロシーンがあるのだろう。

百合とレズの違いが実はここに隠されているのかもしれない。百合とレズの違いはなんだろう?たびたび議論される難問。筆者にはあまり知識がない。グーグル先生に伺ったところ、レズとは『肉体関係を伴い同性愛を認識している関係』、百合とは『肉体関係を持たず同性愛を認識していない関係』だという。ここで重要なのは、百合とレズの「関係」の違いを説明するために、「肉体関係」「同性愛」が指標として使用されることだろう。*17

里奈がいつ優美の愛を自覚したのかは定かではないが、里奈はレズという観念に対して嫌悪しており、6年後の弓張学園での優美への対応を見ればそれは明らかである。

Marchenルートの優美と里奈は肉体関係を持ち「大好き」「愛している」とささやき合う。逆にZYPRESSENでは優美と里奈は肉体関係をもたず里奈は同性愛を認識していないが優美の恋愛は続いている。つまり宮沢賢治の言葉を借りれば、百合とは「恋愛」を含むものであり、他者(たつたもひとつのたましひ)を必要とする関係。レズとは「性欲」を含むものであり、必ずしも他者を必要としない(言い換えれば幻想・夢想・メルヘンでも成り立つ)のではないだろうか。*18そう考えれば、このMarchenルートのエロシーンはレズシーンといえるだろう。

生存競争の激しい自然界では、利己的な個体が生き残りやすく、利他的な行動をとる個体は子孫を残すことができないと思われがちである。しかし、個体ではなく、その遺伝子群として考えたときに、個体の利他的な行動によりその遺伝子群が生き残り、より繁栄することもある。これは、個体の利他的な行動であっても、遺伝子レベルで考えると自己の繁栄を最大化しようとした利己的な行為であるという。*19利己と利他は似ている。それは見え方が違うだけかもしれない。

里奈「まあ私が望んでやったことだしね」

優美「私は里奈を抱きしめる。」

里奈「どうした?いきなり、熱い抱擁とか……」

優美「ううん。何でも無い……ただ、里奈、大好きだよ」

里奈「私もだよ。愛しているよ優美」

私はその言葉に何もかえせず、ただ里奈を強く抱きしめる事しか出来なかった……

ルート分岐させるために、あらかじめ限られた選択肢が与えられるノベルゲームの性質上*20、里奈が選択した(ように見える)世界とはいえ、夢にまで見た里奈からの愛の言葉は果たして本当に願った奇蹟の言葉だったのだろうか?筆者は疑問をぬぐいきれない。

自分の好きな人と決して結ばれない。そんな苦悩から逃避した世界で、よだかや蠍が美しい炎となって自身を昇華していく姿に目を向けず、目の前の里奈を愛する。たとえ里奈の成就しない恋につながろうとも、目を瞑って逃避しそれに甘える。一つのメルヘンがそこにある。恐らく里奈もまた、優美と異なる一つのメルヘンをどこかで夢想しているとしても。

里奈「そうか、どこうか?」

優美「どかないで……」

優美「私にはよだかの青い炎も、蠍の赤い炎も必要ない」

優美「罪悪感で美しく光る星々に用事はない……」

この里奈が優美に覆いかぶさるシーンは、第二章「bend」での里奈と優美の釣りプールのシーンとつながっている。其処で話し合われたのは草薙直哉に対するそれぞれの印象であった。里奈は「才能が余りある人。天才」だとするのに対し、優美はこう言っていた。

彼女にとって草薙直哉はこの時点からある種「天才と認めたがいが、芸術家としての才能は認める存在」であることがわかる。そして、才能が天才を決める一元的なパラメータではなく『才能を忘れさせるもの』つまり「才能」という言葉だけでは推し量れない複雑な要素の上に天才が現れるということ、たとえば『ある特別な才能の形において現れた人格』が天才と呼ばれたりすることを里奈は語るが、優美には納得のいかない様子が見て取れる。このことから、優美にとって芸術家としての直哉の才能を認める側面を持ちつつも、日頃の言動や再会時の印象から彼自身のパーソナリティー(人格)を否定する傾向がある。*21 いや、否定というよりもむしろはじめは無関心に近いものだろう。彼に対しては面と向かって「どうでもいい人」と形容している。それは彼女がレズビアンであるからであり、また恋敵という相反する意識をもち合わせているからだろう。彼女に合った性的指向存在は里奈だけである。

屋上で伯奇の夢を見なくなったと語る優美。個人の幸福を優先した世界ではとりたてて関心を引くものではない。いまのこの世界がたとえ千年桜の夢であろうがなかろうが個人の幸福が優先される。つまり、里奈と結ばれたことがたとえ夢であろうがなかろうが、優美の経験し感じた(罪悪感で美しく光る星々に用事はない)精神はこの現実世界でも引き継がれている。屋上から見えるのは、直哉と傍らに並ぶ稟先輩。彼の奉仕に終止符を打つと誓った存在。直哉の修羅はしずかに成就するだろう。

最後に彼女は直哉と自己自身に対して春日狂想をよむ。「奉仕の気持ちになりはなったが」から始まる詩。それはすでにあのZYPRESSENの夜、優美は一度奉仕の気持ちになっているからである。詩には愛するものが死んだことへの哀悼がそこにある。芸術家としての直哉を愛していた彼女が彼の腕が駄目になったことを知り、その詩をよんだのだろう。優美は芸術家の死を哀悼している。それは彼自身に対して投げかけた言葉であり、あの夜に彼女の内面に芽生えた修羅に対しても語りかけている。最後にでくの坊と語りかけるセリフが暗示的だろう。彼女が本を投げ捨てるのはそれが彼女にはもう必要がないものだから。奉仕の心とやらは彼女には響かない。直哉の修羅性を享受しない。その苦悩から逃避する。それがこのMarchenルートである。

神話とメルヘンの違い。メルヘン(とその他の文学作品)はここから分離している。*22*23

ここで話を戻そう。「ガドルフの百合」では、ガドルフの恋に例えた白百合が一本横たわることで、暗喩に恋の不成就を表し、その後の展開では「おれの百合は勝ったのだ」と宣言する場面に つながる。これは、より高次の愛を自覚することで失恋をのり越え、前にすすむガドルフの意志が如実に現れた場面である。「おれの恋」と呼んだ百合が、いったんは折れ、砕け、しかし最後 に 「おれの百合は勝ったのだ」と再認識されて若者が旅立っていく。この経過は、ガドルフが恋愛的な苦悩を乗り越え、「ひとと万象と」ともに「至上福し」を目指し新たな一歩を踏み出そうとする『春と修羅』のテーマに重なる。直哉の修羅性はそこにある。

優美もほんたうのさいわいは何かを自問する。夢に見えた伯奇と義貞の恋の不成就。結末は悲しいものに見えてもパースペクティブを変えれば異なる所感を与える。

里奈「うん、たくさんの矢に刺されてね……。とても痛そうだった……」

優美「そうなんだ……」

でも彼は苦しくなかったんだよ。

好きな人の胸で死ぬ事が出来たのだから……

別々の視点から見えた夢はたとえ一つの結末を迎えようと異なるかたちで見ることが出来る。それをどうするかは、その人次第だ。夢であったにせよ、夢でなかったにせよ、この(好きな人の胸で死ぬ事が出来た)幸福/不幸は何かを意味している。その間、自分の体が何をしていたにせよ、確かに優美は何かを為したのであり、何かを感じたのだ。*24たとえ自分の苦悩と直面することになろうとも他者の幸福のため、奇蹟=魔物の力に頼ることなく新たな一歩を歩み出せばいい。優美にとってそれは氷川里奈の幸せを願うこと、そして草薙直哉その人自身の幸せを願うことであった。

「新たな決意」と「自己放棄」は一見異なる現象のように見えるが、現在の「私」という眺望からみればそれらは同一の現象を二つに叙述したものである。つまり同じ変化を、未来の「私」から見るか、過去の「私」から見るかのちがいにすぎない。未来の「私」から見た「新たな決意」と過去の「私」から見た「自己放棄」は表裏一体なのだ。この一点で「ガドルフの百合」と「よだかの星」の物語は本質的に結ばれている。*25そんな自己の醜悪さ、苦悩を別のあり方の具象化として昇華させるガドルフ/よだかのようなルートがZYPRESSENルートである。

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方から見たらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです

『眼にて云ふ』

結果的に千年桜は開花し、その奇蹟を優美は奉仕の精神で退ける。奇蹟とは、それを奇蹟的な精神でなす者がなした場合にのみ奇蹟なのである。この奇蹟的精神がなければ、それは単に異常で奇妙な事実であるに過ぎない。そこに奇蹟を感じるために、優美は、草薙直哉の言っていた、人間生きていることそのものの全体を本当に正しい精神で読まなければならないのである。*26ここに一つの百合の花が砕け、彼女の苦悩が昇華される。6年前と同じ結末。そう、これはZYPRESSENの夜の再演なのだ。けれど今度こそ彼女は、ただ立ち尽くしていた自身と訣別し、二人を祝福することが出来るまでに自己の醜悪さ、苦悩を受け止め昇華していく。

そんな辛気くさい顔しない!私は祝福しているんだよ。二人が結ばれる事を

たぶん、誰よりも、私、私が一番祝福している

だって、だってさ。世界で一番、私が里奈の事大好きで……、世界で一番、里奈には草薙直哉って男がふさわしいって事を知っている

そんな私が祝福しないわけがない

これはガドルフが「おれの百合は勝ったのだ」と宣言する場面につながる。失恋を乗り越え、前にすすむ優美の意志が現れた場面である。「おれの恋」と呼んだ百合が、いったんは折れ、砕け、しかし最後に 「おれの百合は勝ったのだ」と再認識されて若者は旅立っていく。彼女は真に一つの百合の花が砕けるのを見た。そして彼女はその痛みを享受し、ひとりの「修羅」として認識を新たにする。

ZYPRESSEN  秋空にいちれつ

くろぐろと光素(エーテル)を吸い

そのくらい脚並からは夢浮きの海さへひかるのに

陽炎の波と白い偏光

まことのことばはうしなわれ

雲はちぎれてそらをとぶ

ああかがやきの十月の海の底をはぎしり燃えてゆききする

わたしはそんな修羅なのだ

ZYPRESSEN  いよいよ黒く

雲の火ばなは降りそそぐ

彼女は寂しがり屋だと自身に語る。丘沢にとって見れば優美は絶対的な存在だった。そんなパースペクティブの問題がここにも登場するが省略。ガドルフの旅が再開されるように、優美もまた、歩みをすすめていく。

視線の先には赤い夕陽。彼女を祝福しているかのように、真っ赤に燃える太陽がそこにある。それはZYPRESSENのように燃え立つ炎のイメージに一致している。自己の内にある修羅を焼きつくし、昇華していく。聖玻璃の風が行きかう中、その意志をもってまっすぐに今、この瞬間をつきぬけていく。*27*28糸杉の花言葉は死・哀悼・絶望。それは、逆説的に不死・再生のシンボルでもある。

そろそろ夕刻

セイタカワダチソウが騒ぎ出す

真っ赤な眼光の夕日

それを見つめる私の目も赤い

風が鋭く冷たく、そして、気持ちいい

この優美の視線の先の太陽は、生まれ変わった「氷川里奈」の姿と重なる。蠍の炎のように、永遠に美しく燃え続けているのである。一つの雫を薔薇色に光らせた蠍の炎と同様、彼女の瞳にはその真っ赤な光をうつしている。そう、彼女の百合は勝ったのだ。

もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる

小岩井農場パート9より)

*1:この記事内容に照らし合わせるなら、たとえば、枕の『向日葵の教会と長い夏休み』ルカ√の終幕でのヘルマンヘッセ著『春の嵐ゲルトルート』についてのテキストが挙げられるだろう。

*2:前期ヴィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』と死後ののちに刊行された『草稿』からのアプローチが多かったように思える。個人的にサク詩に関して言うなら、後期へ変遷・訣別していく中期以降の、あの苦悩するヴィトゲンシュタインの態度の劇的な転換に近いものを感じてならない。それゆえに、サク詩のテーマは『素晴らしき日々』 の “幸福に生きよ” のその先、言い換えれば、梯子としての『素晴らしき日々』を登った先を目指した途上にあるといえる。(それが果たして完全に成し遂げられたかどうかは、ユーザーひとり々々の心象風景に依拠する。そうした意味で筆者は、サク詩が人を選ばせる作品であると考える。)

*3:賢治の恋については、すでに出版物としていくつか公表されている。このあたりはその孫引き知識であることは先に述べておく。筑摩書房「新修 宮沢賢治全集 第十巻」、「定本 宮沢賢治語彙辞典」(原子朗)etc

*4:「あたま」や「脳」という言葉が多く出てきてくることがわかる。これは鼻に病気があると、鼻みずや鼻づまりなどの鼻自体の症状ばかりでなく、頭が重かったり、頭痛がしたりという頭の症状をともなうことがあるからだと考えられる。ちなみに、鼻の病気は、放っておくと脳にまで広がる危険もはらんでいるという常識が一昔前からあるそうだ。(賢治の時代にも存在したかは不明)実際に、副鼻腔炎をこじらせて脳膜炎を起こした、という例は、決して珍しいものではないらしい。

*5:http://www.hokuroku.co.jp/clinic/2008/1121.html

*6:学灯社「知っ得宮沢賢治の全童話を読む」(國文學編集部 (編)p.47-48 )

*7:作家ロジャー・パルバースは、著作「賢治から、あなたへ」で百合の群は雨に負けず、生き延びたという解釈から『「ガドルフの百合」は希望に満ちた物語である』と記している。

*8:題材ではなく比喩として用いている「めくらぶだうと虹」も存在する

*9:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html

*10:http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/yodaka.html

*11:東京書籍「宮沢賢治論 Ⅰ」 (恩田逸夫)

*12:そして賢治はさらに高次の愛、その宗教的情操(宗教的愛)へ「ひとと万象(この銀河宇宙のありとあらゆるもの)と」ともに「至上福し(まこと)」を目指そうとする愛までをも希求していく。つまりその愛の次元は『宗教情操>恋愛>性慾』と高くなる

*13:http://why.kenji.ne.jp/haruto1/159shukyo.html

*14:ニーチェアリストテレスと絡めた論考が考えられよう

*15:ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか シリーズ・哲学のエッセンス

*16:集英社インターナショナル「賢治から、あなたへ 世界のすべてはつながっている」(ロジャー・パルバース)p.16

*17:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4831674.html

*18:2020/06/21追記:同性愛(ホモセクシャアリティ)について、この部分の記述は当時の筆者の無知ゆえに、実際の多様な性の在り方を安易に簡略化し無視する記述だと考えています。この記事では、ここで示された「百合」と「レズ」の二項関係をZYPRESSEN・Marchenへと分岐する重要な存在根拠のひとつとして、あたかも(筆者の述べたような)「百合」と「レズ」が実在しそれぞれ独立であるかのような二元論を組んでしまっており、この後に続く論旨に反しているのみならず差別的だったと考えます。

*19:紀伊国屋書店利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス

*20:ノベルゲーの根本問題がここにあると筆者は思う。つまり【選択したのはプレイヤーと作中の登場人物どちらなのか。そして選択肢を与えたのは作中の登場人物と作者どちらなのか】と問いうるのはなぜなのか。しかし、常にそうだろうか。

*21:『天才をはかる物差しは、人格である』と、かの哲学者も記している。青土社「反哲学的断章」p.105 (MS 162b 22r c:1939-1940)

*22:太字は訳者(ホワイト)が強調

*23:The Big Typescript『106 “Hier” und “Jetzt”』(TS-213,523r c:1929-1933) Wittgenstein

*24:講談社ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』1931年10月12日付p.71-72

*25:私以外に「ガドルフの百合」と「よだかの星」をこのように紐付けて読んだ人を、私は知らない。

*26:講談社ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』1931年5月6日付p.65-66

*27:岩波現代文庫宮沢賢治 -存在の祭りの中へ-」 第二章 焼身幻想(見田宗介

*28:白水社「哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン」(ローランズ,マーク)